Blowin' in the Wind
淡路IC。

それはぽかんと、空虚に青い空だった。見上げると、吸い込まれていきそうなほどに高いところで、とんびが輪を描いている。はばたきもせず、上昇気流に乗って。一つ、また一つ、人は何かを失くすことの積み重ねで大人になっていくのだろうか。空を見上げるのは、決まって何かに悩み、憂い、落ち込んでいる時だ。ないものねだり――。
 とりあえずぼくは、そのとんびを目指して飛び上がった。まだ覚束ないが、先週の日曜日あたりからどうにか飛び方もサマになってきた。前に突き出した右のこぶしに力を込めて、ゆっくりとスピードを上げる。緩めるとエンジンブレーキ。脇をしめて胸元で握り締めた左のこぶしがブレーキの役割を果たす。昔のヒーローみたいな飛び方は今の時代ちょっとカッコ悪いけど、しょうがない。恰好ばかりを気にしながら下の世界にくすぶっているより、カッコ悪くても新しい世界に足を踏み入れたい。それに、スプーンを曲げたりグラスを移動させたりといった「超」能力も、やっていることは案外地味だったりする。まずは基礎を固めて、カッコよさの追究は来年あたりのテーマにしよう。とにかく、どこに行くにも渋滞、割り込み、満員、イライラ……。人間のエゴが嫌でも目につく地上の交通手段にはウンザリだった。
 遥か下に小さくなっていく見慣れた景色を、恐る恐る見下ろす。いつか地上での生活が懐かしくなって、空を故郷と呼ぶようになるのだろうか。そうやっていくつ試して、いくつ諦めれば、自分の居場所が見つかるのだろう。本当は、渋滞も満員電車も、別にイヤじゃない。少なくとも地上の生活を放棄するための理由として決定的とは言えない。押し合うそれぞれの背中に人生があり、みんなが精一杯頑張っている証だ。それに、空の上だって飛び方を覚えて生活の場を地上から移してきた人たちでいっぱいになってきている。ぼくは、逃げているだけだ。失くした一つ一つのものたちへの想いを捨てきれず、心を閉ざし、閉ざした部分をいたわるように残された部分だけで生きていく。抱えてしまった欠落感を拭いきれず、過去も含めて自分にまつわる全ての事実から目を逸らして生きている。そのために、推進力を風に託したのだった。他人任せ――。決して健全とは言えないが、ぼくには傷ついた心を癒す力も勇気もない。それに、答えは吹く風の中だと言った先人もいる。いや、ぼくはいいように言葉の上っ面だけを解釈して、また逃げようとしているだけだ。言い訳を探したり、人と比較してみたり、そんな生き方にはあの日にピリオドを打ったハズなのに……。

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ホノルルで走り終えてから、ビーチに出た。ビーチと道路をへだてる歩道は実に広々としており、そびえ立つ椰子の木が涼しげな空間を創り出している。石造りのテーブルの上に刻まれたボードでチェスをさす人たちがいて、そんな中で僕らもベンチに腰掛けたり寝そべったりしながら雑誌を読んだり、海辺を歩いたり、ゆっくりと流れる時間を楽しんでいた。雨季ということもあってか、波に戯れる人の影はまばらで、僕らのようにマラソンを終えてフィニッシャーズTシャツに着替えた日本人が何人かと、犬と散歩する老婦人が一人……。日常から遠く離れた休暇も終わろうとしている。
 ふと赤塗りのやぐらの上に立つ青年を見た。「LIFEGUARD ON DUTY.」こんな閑散とした日にも、しっかり見守っていてくれるのか。自然の驚異を知るからこそ、どんな日でも必要なライフガードのようには、自分自身に潜む危険から身を守ってくれる人は、自分以外にはいないんだと思う。「Who's gonna be……」そう呟き、ぽつりぽつりと落ちる雨を全身に受けながら、空を見上げた。暮れゆくホノルルの空に夕日が浮かんでいた。込み上げる気持ちの高ぶりを抑えながら、僕らは痛む足を引きずりながらホテルに戻った。
 その夜、フロントでかすれたマジックを借りた僕らは、Tシャツにそれぞれの想いをあらわした。憧れのプロ野球選手にサインをねだる少年のように、何でもいいから「何か」を書いてくれと僕は小堀に頼んだ。何でも良かった。一緒にあの26.2マイルを走った小堀の胸に去来することを、何でもいいから表現してほしいような気がしただけの、僕のわがままだった。そして、一枚のフィニッシャーズTシャツが、何物にも代えがたい僕の宝物となった――「熱き冬の凍星の下、近き日の雪辱を期す。12.8.96 TIME内緒」
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「COOL & TOUGH, it's NO FATE.」――僕は迷わず、そう書いた。いつも目指す目標を追いかける心には、自分を見失わないように現実と夢を区別する余裕としたたかさが必要だと思うし、煩わしいことからは一歩退いていたいと願う気持ちは、きっと関わりを持ってしまう優しさに裏打ちされたものだと思う。そんな二面性をどうすることも出来ずにいる、だけどさりげなく熱い男前になりたいと心から願う、僕の全てだった。きっと、こんなにまでも激しく移ろう世情の中でも、流されるだけが生き方ではないと思うから。自分次第、そんな意味を込めた。

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あれから八年の月日が流れた。情熱の彼方にでっかい自分を築きたい、そう願い続けてきたこれまでを振り返り、もしかするととてつもない過ちを犯してきてしまったのではないかという不安に襲われていた。つまらない大人にはなりたくない――誰だって最初はそう思ってたさ。ホントは今だって……。でも、そんな恰好のいいことを言っていられるほど若くはなく、それでも信じる道を歩むのがぼくの選んだ生き方だったはずだ。その気持ちに偽りはなかったつもりだ。だけどいつの間にか自分で気づかないうちに、ぼくは辛気臭い男になってしまっていたようだ。それはきっと、自分にしか通用しない言い訳で自分を誤魔化してきたということなのだろう。おぞましくも鮮やかな緑色のスライムに両足を絡め取られていたような感覚――。
 振り返ると、何度も選択してきた、あるいは選択したつもりで歩を進めてきた機会があった。岐路に立ち、その選択を誤ると、もう元には戻れない。進んだ通りに後戻りしたくても、さっきは南に下る途中で左に曲がったので今度はそこを右に曲がって北に進み……、もう方向感覚すら失ってしまう。三次元に錯綜するうずまきの迷宮に迷い込み、取り返しのつかない時間を過ごしてしまった。だけど、進めてしまった一歩一歩をなかったことにすることなど、許されることではない。辿ることは目的じゃない。答えを見つけられないまま、空を飛ぼうとしていた。だけど、ようやくどうにか飛べるようになった最近になって思うことがある。空を飛ぼうとしていたというより、追い詰められていただけなんじゃないかということ。道も何もない虚空をただ彷徨っている状態に突入してしまっていた。万有と言われる引力にさえ見放されようとしていたのかもしれない。「地に足を着ける」ことの意味を、もう一度考えてみたい。

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以前DVDで中村敦夫の『木枯し紋次郎』を見ていた時、険しい山道をひた歩く紋次郎を見て父さんが「紋次郎にもGTホーキンスみたいなごっつい靴はかせてやりたいな」と呟いたことがあった。忘れられない一言だ。博愛の精神か老婆(?)心か……。齢を重ねることの素晴らしさを思い知らされた。自分のことにしか気が回らない若輩者には持ち得ない発想だ。近づきたい目標が身近にあることの幸せを感じる。

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とんびは遥か遠くの方に行ってしまった。ぼくはフラフラと、地上に舞い落ちた。梅田の阪急東の交差点、HepFiveや紀伊国屋書店に向かう人々の圧倒的な勢い、タクシーのクラクションや改造車の爆音が交差する。南へ、南へ。ぼくは故郷の山を目指す。山間を縫う古道へ。原点回帰。もう一度、出直しだ。ぼくの魂が求めているのは易きに流されることじゃない。完璧な澱みよりは、激しく不安定な冒険を選ぶ。空を飛ぶことよりは、自らの足で一歩一歩を確実に刻む。自分に与えられたものが何であれ、最後までそれを背負って生きる。自分に与えられなかったものが何であれ、与えられたものに感謝する気持ちを忘れない。ぼくの背中に翼はない。ぼくには42.195kmを何度も完走した足がある。小さい頃からそうだった。都道府県の位置関係を覚えるために日本地図を書くのだが、三陸や丹後にあるリアス式の海岸線を地図帳にある通りにがびがびがびがびと丁寧に写し、その結果、日本地図としてはあり得ないほどいびつなものが出来上がっていた。とにかく融通がきかず、不器用だった。それでも、それならそれで、ぼくの答えはぼくの中にあるハズ……。うちの父さんに気遣われるまでもなく非情な世界を生き抜く紋次郎が言っている――人間には一生に一度や二度、計算に合わなくてもやらなければならねえことがあるもんだ――。ぼくは今、その時を迎えている。誰かに何かを訴える前に、まだまだ自分にやれること、やるべきことがたくさんある。その先に、次の道標が見つかるといい。

Just like a cool breeze blowin' through
Unchained from the material world
Never ending is my journey
Deep in my heart
All I've got is a pocketful of courage
To go the distance
Ever since I made the first step into the field of my dream
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