Can't Get You Off My Mind
昼寝中。

「古座じいちゃんがこの辺まで自転車で見に来てくれたことあるの、覚えたぁるか?」

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大阪から友達が来ることになり、ぼくは幼い頃によく遊んだ地元の清流、古座川を見せてあげたいと思った。勝浦を出て、うねうねと続く海岸線に沿って走る国道42号線は、風の強い日や台風の時には波をかぶることもある。イルカが迷い込んだりすることのある入江、穏やかな内海、立派な旗がバタバタと風になびく漁港、太古の大波が作った蜂の巣みたいな山肌、真っ赤な大橋を渡り、そこで海から離れ、今度は山を目指す。古座川に沿って上流へ、上流へ。家族で暑い夏の一日を過ごすには絶好のポイントとなっている明神橋のところで、合流する支流の方にハンドルを切る。本流とは水の色が明らかに異なる。長閑な田園風景が続き、風が渡り、ただ瀬の音だけが耳に心地よい。さらに上流へ。道がだんだん細くなり、時々集落が散在している他は人家もまばらになってくる。ごつごつした奇岩が川に迫り、飛沫がほとばしる。そこで引き返し、明神橋まで戻って今度は本流に沿って車を走らせると、鶴川橋という沈下橋が見えてくる。周りの大きな山と相まって、郷愁を覚える。夏には虫取り網を持った子供たちが駆け回り、秋になるとトンボが乱舞する。この辺りに来ると父さんは、「紋次郎でも歩いてそうやな」とよく言う。父さんは自分の気に入ったことなら何度でも同じことを言って、ぼくたちを困らせる。「ホンマやね」とだけ答える。鶴川橋を越えてさらに進むと、中国の墨絵を思わせる一枚岩がそびえ立っている。巨大な岩の前を悠々と流れる川では、子供たちが水しぶきをあげながら楽しそうにワイワイやっている。小さな土産物屋があり、テントやキャンピングカーも見える。人間を受け入れてなお、自然が自然のままに残っている。雄大な風景だ。この辺一帯は、父の育ったところでもある。

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そんなところを友達に見せたいんだ。そう言うと父さんが張り切りだした。小さい頃からキャンプに連れていってもらったり、父さんの親類の家に寄せてもらったり、古座川下りと称して父さんを隊長にゴムボートに乗り込み、泳ぎの練習を兼ねて古座川を上流からずっと下ったり、慣れ親しんだ土地ではあるが、それでもぼくは地元の地理に疎かった。一人で案内するとなると、道に迷いかねない。それでなくても方向音痴で、平気な顔をして反対側にハンドルを切り、しばらくは口笛なんかを吹きながら全然違う方向に走ってしまう。ぼくは父さんの申し出を珍しく快諾し、一緒に父さんの車に乗り込んで下見に出かけた。
 二人で車に乗っていると、たいてい父さんが一方的に話す。ぼくは相槌を打ったり打たなかったり、いい聞き手ではないけれど、父さんはたまに夏にした話を正月にまた話し出すことを除けば、いい情報源だったりする。その日も多分、そんな感じで国道42号線を走っていた。そしてぼくたちが小さい頃に古座川下りをしていた辺りに差し掛かり、しばらく無言のまま車を走らせていた父さんが不意に、「古座じいちゃんが自転車でこの辺まで見に来てくれたことあるの、覚えたぁるか?」と訊いてきたのだ。覚えていた。鮮明に覚えていた。ぼくたちのボートが流れる川を見下ろせる車道の端に自転車を停め、自転車にまたがったまま、「あつしぃ〜、じゅ〜ん!」と手を振ってくれたことを、今でもはっきりと覚えている。ぼくは泳ぎが得意じゃなくて、ゴムボートに乗ったままだったか、浮き輪に必死に掴まってボートの横をぷかぷかと流されていたか、それは定かじゃないけれど、その時の古座じいちゃんの姿は覚えている。
 当時は泳ぎに行くとなると、浮き輪は欠かせなかった。みんながゴムボートに空気を入れている間もぼくは、手伝いもせずに自分用の浮き輪を大事そうに抱えていた。毎年恒例だった古座川下りでは、ぼくはせいぜい浮き輪をつけたままボートの横に浮かんでいるぐらいで、泳ぎの練習をしようともせず、怠け者だった。そんな甘ちゃんだった頃の忘れられないエピソードがある。

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ぼくはやはり浮き輪を頼りに、ゴムボートの周りを付かず離れず浮いていた。普通に体を入れてクロールの真似事をしたり、輪っかの中に尻を落としたぐうたらな姿勢で空を見上げながら浮いていたり、疲れたらボートに掴まったり、気ままに振舞っていた。中洲になった部分があったか何かで、流れが微妙に二手に分かれていたのだろう。ぼくが全幅の信頼を置く父さんと敦ちゃんが乗ったボートは向こうを選択し、流れに身を任せきっていたぼくは独り反対側に流されてしまったのだ。ぼくはそのまま蛇行する川の流れが渦になったところまでどんどん流されていった。川底に引きずり込まれるほどには強くない渦から、ぼくは抜け出せないでいた。あるいは、自分では抜け出そうともしないぐらい怠け者だったか。とにかく浮いていられたのはひとえに浮き輪のお陰だ。それでも近くに引っかかった流木がワニに見えたかと思うと次の瞬間には大蛇に見えたり、それなりにパニックに陥っていた。当時からぼくは想像力が豊かすぎるきらいがあったのだ。でもその時、向こうの方からクロールで助けに来てくれる父さんの姿が目に入った。父さんはぼくの腕をがしっと掴み、力強く渦から助け出してくれた。そしてそれからはボートの上に上げられ、ちょこんと座ったまま、恥ずかしさに顔も上げられずにゴールを迎えた。古座川下りをするのはたいてい夏休みで、そんな時には親戚の人たちが古座じいちゃんの家に集まっていたりして、夕ご飯の席でその話が話題になり、強烈に恥ずかしかったことはそれほどインパクトのある思い出にはなっていない。だけど、それ以来ぼくは、分かれ道が苦手になってしまった。たとえば大阪でも地下街を歩いていたりすると有事の際に通路を塞ぐ防火扉があるが、誰と歩いている場合でも、その左右を分かつ柱のあっちとこっちの別々になりたくないと思ってしまう。別の時空に連れて行かれるとまでは思わないけど、ニ、三歩先の柱の向こうで出会えないような気がするのだ。ちょっとしたトラウマだ。
 ただ、いま気が付いたことだが、このエピソードは古座じいちゃんの話とは直接関係がない。

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古座じいちゃんは、古座に住んでいたから古座じいちゃんと呼ばれていた(古座ばあちゃんも古座に住んでいた)。ぼくたちが小さかった頃、夏休みになると泊りがけで遊びにいっていた。従兄姉のみんなも来ていたりして、庭に畳二枚分ぐらいの縁台を出して、そこでみんなでスイカを食べたり、カキ氷を食べたり、麦茶を飲んだりした。生垣の木になっている小さな実を取ったり、つぶすと緑色の汁が出てくる葉っぱでコンクリートの地面に絵を描いたりして遊んだ。ぼくたちが寝ていた部屋には鮭をくわえた木彫りのクマがあった。裏の庭には金柑がなっていた。裏庭から車庫を通って家の前の水路につながる溝には、沢蟹がいた。しろちゃんの車はいつもピカピカだった。古い納屋にぼくたち愛用のゴムボートがあった。青いホース付きの黄色いポンプを足で踏んで空気を入れるやつだ。そうやって、入れたのだ。今はゴムボートもなく、縁台も、古座じいちゃんの家にみんなが集まっている風景もない。

 古座じいちゃんは、ぼくが大学を卒業して大阪で働いていた頃に死んだ。その日の大阪は一日中しとしとと雨が降っていた。ぼくは朝から気の合う仲間たちと集まっていた。池田の友達と、榛原の友達と、そしてぼくは吹田から、柏原の友達の家に集合して、近くのスーパーで買い物をしてみんなで昼ごはんを作ったり、ビデオを借りてきて観たり、のんびりと過ごしていた。雨が上がった夕方には近くのゴルフ練習場に行き、夕闇が迫る中、パターゴルフをして遊んだ。夕ご飯はお好み焼き屋で済ませた。ぼくが初めてそばめしを食べたのもこの日だった。その後、池田の友達は帰っていったが、ぼくは色々疲れていることが続いていた中で久しぶりに気持ちの休まる一日だったということもあり、そのまま帰る気にはなれず、残った三人で榛原までドライブすることにした。車の中ではそれぞれの将来のこと、昨日あったこと、さっき観たビデオのこと、カーステレオから流れてくる音楽のことなど、とりとめもない話は尽きなかった。東へ東へと車を走らせ、一時間ほどで榛原に着いた。榛原の友達を降ろし、帰りは二人でまたとりとめもなく熱い話をしながら帰った。とりとめもなく、充実した一日だった。
 吹田の部屋に戻ったのは夜の十一時過ぎだった。留守電がピコピコと点滅していた。十何件かの用件は、全て母さんからだった。でも勝浦からではなく、古座からだった。用件は告げずに、遅くてもいいから電話するようにとメッセージが残っていた。遊び疲れていて眠ってしまいたかったが、とりあえず電話した。そして、古座じいちゃんの死を知った。とても哀しかった。ぼくは一日中遊び呆けていた。恋だの夢だのと、自分のことばっかり考えていた。古座じいちゃんの意識が戻らず、古座ばあちゃんが悲しみに暮れ、親戚のみんなが色んなことに追われていた時、ぼくは一日中遊び呆けていた。古座川下りをするぼくたちを心配して自転車で見に来てくれた古座じいちゃんが死んだ日に、ぼくは遊び呆けていたのだ。勝浦の家の郵便受けは、古座じいちゃんが作ってくれたものだ。赤く塗ったペンキは今では色褪せ、剥がれ落ち、それでも未だぼくたち宛ての郵便を受け取ってくれている。父さんの名前、母さんの名前、敦ちゃんの名前、そしてぼくの名前が並んでいる。ぼくの名前の上には途中から違う名字が書き足された。

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葬儀を済ませ、帰りのオーシャンアロー号の中、窓から海を眺めていた。陽の光がキラキラと反射し、穏やかな海面にときおり見える白い波頭、遠くに伸びる一本の水平線。名前も知らない白い海鳥がたくさん飛んでいた。橋を渡る。大きな故郷だ。大自然に包まれて、人の一生なんて小さく儚いものに思えてしまう。一人で生まれて、すぐにたくさんの家族や仲間たちに囲まれ、愛され、多くの温かい思い出を残し、そしてまた一人で旅立つ。せめて旅立つ人の胸にも、同じく多くの温かい思い出がいつまでも残りますように。いつまでもぼくたちのことを忘れないでいてくれますように。そして安らかに、お眠りください。ぼくは今でも、いつまでも、あなたのことを忘れません。

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父さんに「覚えているか?」と聞かれ、ぼくは「うん」とも「おぉ」とも判別のつかないよく分からない返事をした。別に思い出話をしたりはしなかった。でも、あの時に父さんは何を想っていたのかなと思う。もう十年近く前のことだけど、未だにふとそんなことを考える。古座じいちゃんは学校の先生だった。父さんも学校の先生だった。父さんは他に一般企業への入社を考えたこともあるという話を聞いたこともあるけど、結局古座じいちゃんと同じ道を選んだ。それから武田鉄也にも水谷豊にも竹之内豊にも負けない熱中先生として教え子たちから愛され、職務を全うし、今はDVDを観たり、漢字検定に苦戦したり、庭の木を切ったり、納屋の整理をしたり、母さんと旅行に出かけたりして過ごしている。
 古座じいちゃんに対する父さんの想いについて、ぼくはあの時に初めて考えてみたような気がする。ぼくと父さんとの関係と同じ関係が、父さんと古座じいちゃんとの間に存在するという単純な事実について、ぼくはそれまで考えたことがなかった。ぼくはいつも自分中心だったなぁと、いつも反省する。あのとき父さんが特別に思っていたことがあったとするなら、それはもしかしたらぼくに伝えたかったことなんじゃないかと思ったりもする。父さんはぼくに勉強を教えてくれたし、小さい頃には寝る時に色んな物語を聞かせてくれた。色んな言葉でぼくへの期待を語ってくれたこともある。でもたぶん本当は、特にぼくがそれなりに大きくなってからの最近は、もっと別のことも教えたかったんじゃないかと思うことがある。それはぼくのどうしようもない性格を見て軌道修正を迫られてのことだったのかもしれないし、そもそもこんなこと自体がぼくの考えすぎなのかもしれないけれど。あるいはそんなことはもうとっくに、その言葉、その背中で教えてくれたはずのことなのかもしれない。ぼくは照れ臭くてそんなことは言い出せないし言い出すつもりもないし、父さんもきっと照れ臭くてそんなことは言い出さないだろうから、きっとこのままぼくは想像し続けるような気がする。でも、それでいいようにも思う。そのことの意味を理解できるぐらいには、ぼくも大人になったから。
Need some shelter from the sorrow
Of losing you
There's no one who can live alone
And you've gone to the great beyond
Love & Peace
On a day like today
Nothing else means anything
Everybody needs somebody to love
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