Diary
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2005年9月30日(金)
九月。

今月は30日までしかなった。31日まであるつもりだった。と、昨日思っていたら、昨日とか今日とか明日がごっちゃになってしまって、今日は起きた時からもう10月のつもりになっていた。だから、一日得したような損したような、狐につままれたような、よく分からない一日の始まりだった。だいたい何月が31日まであって何月は30日までしかないかなんて、「にしむくさむらい」と言いながらじゃないと、すっとは出てこない。でもいずれにしても、今日で今月は終わりだ。今月は色々あった。とても涼しくなったし、赤とんぼを見かけるようになった。きちんと靴を履くようになった。水道の水が冷たくなった。シャワーの設定温度を三度上げた。コーヒーを入れてホットのまま飲むようになった。だからお気に入りのミッドナイトブルーの透明マグカップを使う機会が増えた。選挙に行った。生き方を考える前に生きていることを実感することが大切だと思ったりした。夏から秋に変わる九月は移行期というか、何かと色々浮遊していてるような、夏の色でも秋の色でもない透明感はあるけれど、それはつまりどっちつかずで不安定だということなのかもしれない、なんて自分の落ち着きのなさを季節のせいにしてみたりしてみた。十月は九月を踏まえて、きちんと過ごそうと思います。

2005年9月29日(木)
「カフェする」。

一昨日の日記で「感心する」と書いたつもりが「関心する」となっていた。「かんしんする」と書いたところで変換キーを押したつもりだけど、「関心する」なんていう動詞はないので、「かんしん」と書いたところで変換キーを押して、変換ミスに気づかないまま「する」と続けたのかもしれない。きっとそうだろう。そうじゃないと、ワードが勝手に今風に名詞を動詞化したということになる。迷惑な話だが、今風だ。ちょっとカフェする? みたいな感じで。そんないたずらは、日記を書いている時ぐらいなら相手をしてやってもいいけれど、翻訳をしている時にはやめにしてもらいたい。カフェするで思い出したけど、関学に入った時に「お茶をしばく」という言い方を習った。「今日これからどうする?」「茶でもしばいとくか」みたいな使われ方をしていた。「なぁなぁ、茶しばけへん?」とか言われると「大阪ぁ!」という感じがしたものだ(関学は兵庫県だけど、今これを書きながら思い出している友達が藤井寺だったので)。「茶しばき」という名詞形もあった。周りは以外とみんな普通に使いこなしていて、初めのうちはびっくりした。「しばく」というのは、ジャイアンツの清原選手がホームランを打った時に「来た球を思い切りしばいたろ思てました」みたいなコメントを残してからは全国区の表現になったかもしれないけれど、和歌山の田舎から出てきたばかりの当時のぼくには新鮮な響きがあり、田舎者なりに感じていたのは、運ばれてきたお茶をびしょびしょっ、ばしゃばしゃっ、とこぼしながら、カップごとバリバリッ、ガリガリッ、と噛み砕いたり踏んづけたり、投げつけたり、お互いにぶっかけあったり、しかもその間、ちょっと薄笑いを浮かべていたりして、そんなやんちゃなイメージで、だから結局ぼくは最後まで使いこなせなかった。「お茶をしばく」というのは関学を卒業してからは聞いたことがないような気がする。どこまで通用する表現だったのかな。関西だけだろうなという気はするけれど、「じゃ、課長、ちょっとお茶でもしばいて帰りましょうか?」「せやな、茶でもしばいてから帰るか、伊達くん」なんて会話は交わした記憶がないから、関西でも社会人は使わないんだと思う。最近は「大人語」というのが流行っているけれど、これは学生語だったのかもしれない。今の学生たちも使っているのかな。使っていないような気がする。今はきっと、もうちょっとオシャレ(?)に、あるいは気取って(?)、そして目を細めて(!)、「カフェする」だ。

2005年9月28日(水)
戸別訪問。

相変わらず、と書こうとしてタイプミスで「あいがわらう」と書いてしまって「愛が笑う」と変換された。なかなかディープな表現だ。覚えておこう。本題に戻って、夜の八時ごろに相変わらずカタカタカタカタとキーボードを打ちまくっていたら、玄関のピンポンが鳴って、おじさんが国税調査票を持ってきてくれた。たぶん、この間も来てくれていたような気がする。うちの父さんぐらいの年齢の方で、記入の仕方などについてきちんと説明をしてくれて、とても感じのいい人だった。住人が在宅しているだろう時を狙って戸別に訪問するという面倒くさい配布係を引き受けた時に、言わないといけないとおそらく言われたことをきちんと言って、読めば分かるようなことまでグダグダと説明するという野暮なこともせず、戸別訪問で手渡す際のやり方としては申し分なくて「なかなかやるな」という感じだった、なんて偉そうなことを言っているぼくは一体何様だろう。とにかくきっちりしていて、それでいてなお機械的なところもなく、コンビニやファミレスでよく見かける店員さんとはエライ違いだった。だからコンビニエンスストアはコンビニ扱いされ、ファミリーレストランはファミレス扱いされるんだ。当たり前のことを当たり前にできることは今や当たり前じゃないんだ。今日の人は国税調査官なのだろうか、それとも配布要員なのだろうか。市役所の人なんだろうか。それとも面倒な大役を請け負った一般の人なのだろうか。こんな方が国税調査官をしているなら、誰も国税調査官のことを国調とか省略して呼ぶ人はいないだろう。名称を省略することに特に深い意味も意図もないと思うけど、省略された側には省略されなかった場合と比べるとそれなりの違いが生じてくる。だから省略しない、あるいはできない相手や事物というのも、いたりあったりするはずだ(日本国憲法を日憲、キリスト教学をキリ教と省略するのは無邪気な大学生の暴挙だと思う)。この間も来てくれていた気がすると言ったのは、いつもより早めにお風呂に入っていて、ピンポンが鳴ったんだけど出られなかったことがあって、それがそうだったんじゃないかなと思っているだけだけど、そうだとしたら悪いことをしたな、と思うぐらい今日の人は印象が良かった。友達になりたいぐらいだ。戸別訪問を鬱陶しがる住人もいると思うけど、やらんとアカンことはきちんとやるんだという姿勢に少しも疑いを持っていない人だと思う(ぼくは好きになったりいい印象を持った人には、どこまでもいい印象を持つタイプだ。前にもどこかで日記に書いたけれど、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの逆のパターンだ)。それにしても、戸別訪問は大変だと思う。以前、東京の練馬区に住んでいた頃、新聞の勧誘員がその地区でやたら問題を起こしていて、戸別訪問にはなるべく出ないようにと注意を促す回覧板が回ってきたことがあった。それはそれで、誠実に戸別訪問をしている人にとっては迷惑な話だ。ぼくは居留守は使わないけれど、一人暮らしだと誰かが来た時に出たくても出られないタイミングがある。そんな時に、玄関に変なマークを落書きしていく人たちもいる。だから、頑なに居留守を使う人が出てきてもおかしくないと思う。都会では、あるいは田舎でも最近は、知らない人との交流がない。おかしな話だ。初めは誰だって知らない人なのに。

2005年9月27日(火)
ペーパークラフト。

またこの季節になってしまった。せっかくの爽やかな早朝に始まって、爽やかな昼の間もずっと、そして爽やかな夕方が爽やかな夜になるまでとにかく一日中、近所の迷惑も顧みず、流行りの安っぽいサウンドを大音量で流して、拡声器に向かってヒステリックにがなり立てる。子供たちが楽しみにしている運動会の練習だからといって協力できるレベルの騒々しさじゃない。国道43号線を走る2トン車でさえ驚いて国道2号線に迂回するだろう。きっと子供たちもびくびくしながら、それでも隣りの友達なんかと先生の悪口を言ったりしながら、イヤイヤ言うことを聞いているんだろう。まったく、品位を疑うよ。「品位」っていうのは「人に自然にそなわっている人格的価値」のことだ、と広辞苑に書いてある。よく分からないけれど、その品位を疑ってしまうんだ。誰かに対してその人の品位を疑うなんて、よっぽどのことじゃないとできないぜ。そんなことを、滅多なことでは怒らないこの穏やかなぼくにさせているんだ。二重に品位を疑うよ。でもちょうど今日は図書館に行く用があったので、だからといって時間を潰しているほどヒマではないんだけど、しょうがないからそのまましばらく六人がけぐらいの長いすに一人で寝っ転がっていびきをかいている人の足元に座らせてもらって、読みたくもない雑誌や新聞を読んで時間を潰し、さらに図書館とは丸っきり方向の違う駅前にある銀行に行って家賃を振り込んでから帰ってくると、まだうるさかった。こうまで一日中ヒステリックに頑張る先生は、どういう方針で何を教えようとしているのか知らないけれど、それはそれで大変だろうと、別に嫌味ではなくちょっと感心する。ただ、ぼくにも集中してやらないといけないことがあるわけだし、連日のヒステリーと安物サウンドにはいい加減我慢がならなくなって丁寧なお電話を差し上げたところ、電話に出た先生は非常にきちんと応対してくれたので、まぁ今日のところはいいにしておいてやろうかと思っていると、少しでも音量が下がっていたのは小一時間ばかりで、それからまた相変わらずうるさくなった。五月蝿くなった。五月の蝿になった。……というような日記を書こうかとも思ったんだけど面白くないからやっぱり止めにして、図書館で仕入れてきた楽しいインターネット・サイトを一つ紹介します。キャノンのサイトにあるクリエイティブパークというページで、ペーパークラフトをダウンロードして、それを自分でA4サイズの紙数枚に印刷して作るという楽しい楽しいコーナーです。動物、キッズ、おもちゃ、折り紙、科学、世界の民族衣装、世界の建造物、イベントといったジャンルがあって、ぼくはその中の「世界の建造物」からイースター島のモアイ像をダウンロードして作りました。夢中で作りました。色は初めからついているので、印刷した展開図に沿ってハサミで切って、折ったり丸めたりして、のりで貼って、おしまい。それでもノートルダム大聖堂とかモン・サン・ミッシェル修道院とか複雑なものになると、A4用紙を10枚ぐらい使って、10時間ぐらいかかるものもあると、図書館で読んだ雑誌には書いてありました。ぼくは普通紙に印刷したのでちょっとへにゃへにゃになってしまったけれど、もう少し厚手の紙に印刷できれば、きっと楽しい工作の時間を過ごせるのだと思います。色んなものが作れるので、小さいお子さんがいらっしゃる方にはオススメですよ! ぼくが小さい子供なら夢中になります。作り終えると外は暗くなっていて、運動会の練習もとっくに終わっていました。いつの間にか雨まで降っていました。そんなことにも気がつかないぐらい夢中になります。

キャノン・クリエイティブパークのURLはこちらです。

2005年9月26日(月)
夢。

朝早く、国道43号線をぶっ飛ばすトラックの轟音に目を覚まし、眠い目をこすりながらコーヒーを入れた。狭い部屋はすぐに香ばしい匂いに満たされて、だけど窓を開けるとその香ばしさが流れ出ていった。それを両手で受け止めようと差し出した手に、一粒の雨が落ちた。そうか、今日は雨か、どの服を着ようかな、なんて思っていると携帯にメールが届いた。こんな朝早くに誰だろうと思いながら、でもその前に朝食を済ませてしまおうと思って昨日買ってきた黒糖パンを焼いて、グレープフルーツを半分に切った。そういえばグレープフルーツはよく食べるから先っちょがギザギザになったスプーンを買いたいと思いつつ、そのままになっている。GFはルビーに限る、なんていっちょ前にグルメぶったところで後に続くコメントは思いつかない。黒糖パンは初めて買ったけれど、ほんのりと甘くて、とてもおいしい。バターを塗って、二枚食べた。コーヒーはこの間、『コーヒー&シガレッツ』を観てから何だかちょっとした意味を持つようになった気がする。コーヒーを飲みながら過ごす時間の意味。意味が分からない、という言い方を最近よく耳にする。意味って何だ? 全てに意味を求める必要などあるのか? 最近の若い奴らの言うことはまるで意味が分からない。そうだ、さっき確かメールが届いていたはずだ、と思って携帯を覗き込むと……、メールなんか届いていない。そんなことよりも、え? 10時を過ぎている! うわっ、寝過ごした!! 外はいい天気じゃねえか!!! 雨もGFも黒糖パンも、全部夢だったんだ!!!! 二度寝してる間に爽やかに呑気な夢を見てたんだ!!!!! うわぁぁあああ!!!!!! ……そんな慌しい朝を迎えている夢を見た。

2005年9月25日(日)
「無造作に流す、ベタつきなし!」

髪が長くなってきてそろそろ切らないとなぁと思っていた時に、ふと立ち寄ったドラッグストアで「前髪・サイドを自分でカット!」できるハサミを発見した。「初めての人でも大丈夫!」なためのマニュアルも付いていて、定価よりもちょっと安く売っていた。ぼくの髪は量が多く、ボリュームを押さえるのにとても困っているということは色んなところで有名な話で、美容院では「普通の人の二倍」すいてもらって、それでも伸びるのもおそらく人より早いためにすぐにぶわっとなってきて、風呂から上がって髪を乾かす時には結構念入りに根元から乾かし、人前に出ても見苦しくない髪型を常に意識している。そのわりに具体的な対策は以上で終わりなんだけど、そんな毎日の苦労がこれで解決だ、と言うには半信半疑ながらそのハサミセットを購入した。そして帰ってきて早速新聞を敷いて、鏡を覗き込んでハサミを構えたのはいいけれど、案の定、切りたい髪からハサミが遠ざかっていったりしながら、どうにかジョキジョキと切り始めてはみたものの、鏡で見えない後ろの部分などは全く手に負えず、このまま切り続けると妙ちくりんなバランスになってしまうことに気づき、少し切ったところで止めにした。ダメだ、失敗だ。人前に出ても見苦しくない髪型といっても滅多に人前に出ることもないわけだし、そんなに言うほど見苦しいわけでもないし、まぁいいかと思いつつ、また次に入った別のドラッグストアでワックスを買ってみた。整髪料みたいなもんは高校を卒業してからつけたことがなかった。高校の時はそれこそデー○ン小暮の影響でバリバリつけていたけれど、やりすぎて飽き、つけなくなると今度はつけないでい続けることにムキになってしまって、美容院でもワックスをつければ収まりますよ、なんて言われながらも頑なに拒み続け、そして今回、非常にあっさりとその呪縛から逃れてやった。すると、ワックスの効果はてき面だった。髪のボリュームを押さえただけで、鏡に映る自分がまるで別人のようでした。こんにちは、と挨拶した。

2005年9月24日(土)
外で気分転換。

久しぶりに本とiPodと敷物とおさつスナックを持って自転車で新西宮ヨットハーバーに行ってきました。昼間はじっとしているとまだ少し暑かったりするけれど、自転車で風を切って走るのは気持ち良かったです。休日なので人が多いかなぁとちょっと心配していたのだけど、それほどでもなく、ただ、普段はきれいに整備されている芝生がぼうぼうに伸びていて、その分、虫もいっぱい飛んでいて、ちょっと寝転んでいるだけで色んなところが痒くなってきて、だから阪神西宮駅の近くのスターバックスに移動して、続きを読みました。陽射しは少しきつかったけれど、久しぶりに外を満喫しました。最近は部屋にこもりがちになっていたので、気持ちよかった。余裕がなくなると机に向かっている時間が長くなりがちなんだけど、それで効率が良くなったり捗ったりするわけでもないんだし、そんなことはもう嫌というほど分かっているはずなのに、余裕がなくなると体が金縛りにあったように机から離れられなくなる。それが無駄な時間を過ごしてしまうための悪循環に陥る第一歩だと気づいているということにも気づかないフリをしたまま、少しの時間も無駄にしたくないと思ってしまう。そういえば、一度だけ金縛りにあったことがある。松戸に住んでいた時なんだけど、明け方に目が覚めて、だけど目は開かないから意識だけが目覚めたような感覚で、それでもはっきりと部屋の様子は見えていて、あ……、ちょっと怖くなってきたので今日はこの話は止めときます。また今度、明るいうちに日記を書ける日に改めて書き直します。とにかく今日は、久しぶりにサイクリングで汗を流し、外で読書などして気分転換ができ、また明日から翻訳のペースを上げていこうとやる気に満ちている状態です。

2005年9月23日(金)
アルファルファ。

この接着剤みたいな名前のもやしが体にいいそうだ。ビタミンCやミネラル、食物繊維が豊富に含まれていて、夏ばてに効くという。他にも食欲増進、消化促進、不眠症解消などの効果があって、とにかくいいらしい。ぼくは体にいいと言われると、けっこう好き嫌いなく食べようととりあえず試みる傾向にある。たいていは一時的なブームで終わったり、あるいはやっぱり好きになれなかったりするんだけど、以前は青梗菜をよく食べていた。今ではもう何が含まれていて何にいいのかはすっかり忘れてしまったけれど、その頃は冷蔵庫の野菜室にはいつも青梗菜が入っていて、何を作る時でも青梗菜を入れていた。野菜炒めはもちろん、玉子焼きにも青梗菜を刻んで入れたり、インスタントラーメンを作る時も青梗菜を乗せ、中途半端に残ったら茹でてシャキシャキとかじっていた。でも、今はこんな日記を書いているからそんなこともあったっけと思い出したけれど、いつ止めたかさえ気づかないぐらい、いつの間にか青梗菜ブームは終わっていた。自分でももうちょっと食にこだわれたらいいとは思うんだけど、どうも苦手だ。アルファルファは今のところ、レタスと一緒にドレッシングで和えて食べるのがお気に入りなんだ。だけど、今日の日記を書く前にちょっと調べてみたところ、「主に牧草として栽培される……」という記述があったのがちょっと気になる。それと流しの水が捌けていくところに詰まってしょうがない。要注意だ。

2005年9月22日(木)
期待。

最近涼しくなってきたと思ってニコニコしていたのに、今日は風も吹かず、蒸し暑い一日だった。暑さ寒さも彼岸まで、とうちの母さんがよく言っていた。春分の日を迎えたらそれ以降はだんだん暖かくなり、暑くなり、秋分の日を境にだんだん涼しくなり、寒くなり……、というアレのことだけど、当然、春分の日と秋分の日では平均気温は違う。春分の日は13度で、秋分の日は25度だそうだ。13度で暖かく感じる春と、25度でどうにか涼しく感じる秋。勝手なもんだ、全く。その点、虫は正直だ。いつもはあんなに賑やかなのに、今日はぴたりと鳴き止んでいる。そしてぼくはもちろん、秋分だというのに蒸し暑いと文句を言う。要するに期待値の問題だ。秋分の日を過ぎればそろそろ涼しくなるはずだという過剰な期待に、実際の体感温度差が追いつかないんだ。期待しなければ、体はもっと素直に温度差に反応するはずだ。だから期待するのは止めようと言うわけではないけれど、過剰な期待は反動で失望を招くことがある。だけど、自分の努力次第でどうにかできることであれば、どんどん自分に期待してハードルを上げて、自分にどんどん多くを求めていきたい。反動や失望みたいなもんを招くも招かないも自分次第で、そんな背水の陣的環境を整えて、期待と動機づけがいい方向に循環すればいい。そうすれば、こんなところに落ち着いてしまうこともなく、どこまでも飛躍できる。どうだい? なかなかいい作戦だろ?

2005年9月21日(水)
苦手な読書。

昨日『長いお別れ』を読み終えたんだけど、読み終えてちょっとだけ反省した。登場人物がぼくにはちょっと多すぎて誰が誰だか分からなくなり、途中から半分諦めていたところがある。登場人物の数だけじゃなく、ぼくにとっては少し意識してのめり込まないとついていけなくなるタイプの本で、そういう本もどんどん読んでいきたいと思っているんだけど、なかなか頑固な自分を解き放って作者の世界に身をゆだねることができない。T.ウィリアムズの『欲望という名の電車』を読んだ時もそんな感じだった。初めて読んだ時はまるで理解できず、だけどそれからM.ブランド主演の映画を観て、英語で読む機会もあり、部分的に翻訳の練習にも少し使ったりして、それから内野聖陽と樋口可南子の芝居も観て、そうするとようやく少し分かった気がしたという経験がある。その時は、何かがカチッと切り替わるような感覚があった後に、何かを理解したような気がした。そこまでする必要があるのかどうかはまた別の判断が必要になってくるけれど、『長いお別れ』も映画になっているようだし、今度ビデオを借りて観てみたいと思う。そしてその後でもう一度読めば、少しは理解も深まるはずだし、今回よく理解できなかった理由も何か分かるかもしれない。本を一冊読み終えてよく分からなかった時というのは、かなりストレスが残る。無理やり納得したことにしようとさえしてしまう。今回はそれほどだったわけではないけれど、自分の不得意な本を読む時こそ、字を追うのではなく、抽象的な面も含めてイメージを大切にすることが必要になってくるのかもしれない。そういう点で言えば、映画はイメージを形成する上で大いに役に立ってくれるはずだ。そういえば、ぼくが何度挑戦しても読み通すことができないJ.ケルアックの『路上』も、今度『セントラル・ステーション』や『モーターサイクル・ダイアリーズ』のウォルター・サレス監督で映画化されるようだから、こっちも是非見てみたい。

2005年9月20日(火)
無意識の記憶。

夜、外に出るとなんだか懐かしい匂いが吹き抜けていった。具体的にいつのどんな場面とリンクしているといった類の匂いではなく、なんとなく、すごく懐かしく、ふと立ち尽くし、そしてふっと消えてゆき、また歩き出す。そんな匂い。子供の頃は意識するまでもなく、毎日あんな匂いに包まれていたような気がする。いつの頃からか、そういう匂いがぼくの周りから消え、消えたことにも気づかずに今日まで過ごしてきた。それを、ふと思い出した。もしかすると今日も実際にその匂いがしたわけではなく、ただ何か複数の偶然の要素が重なり合って、ぼくの無意識と意識のつながる部分が若干いつもより意識の領域寄りに移動し、たまたまそこに保存されていた匂いの記憶が呼び起こされただけのことだったのかもしれない。大人になると色んなことを覚え、意識的に多くのことを行うことが可能になり、あることないこと頭の中に作り出し、そして無意識の領域に保存されている確かにあったはずのことを忘れてしまうのかな、と思ったりする。大人になって、退化してしまう部分なのかもしれない。けっこう好きなんだけど。だから意識的にそこに働きかけたいと思っている。

2005年9月19日(月)
日記などを書いていて思うこと。

日記などを書いていて、一言で的確に言い表したい場合と、長々と書き連ねてでも丁寧に描写して周辺の事情なども共有しつつ全体の雰囲気を掴んでもらいたいと思う場合と、大きく分けると二つ(特にそのどちらでもない場合、というのも入れると三つ)ある。そしてもちろん、それぞれの試みが成功しているかどうかは、また別の問題だ。いずれにしても、前者の場合はボキャブラリー不足のために非常に悶々とすることがある。表現したいことがあって、それを表現するためにしっくりくる言葉が全く思い浮かばない、ということはあんまりなく、たいていは、思い出したいはずの言葉はなんとなく見当がついているんだけど思い出せなかったり、思い出したと思ったら思い出したいと思っていた言葉ではなかったりする。しっくりくる言葉を思い出せた時の安堵感はけっこう快感レベルが高いんだけど、言葉が出てくるのに任せるのではなく、こっちから探しにかかると言葉の方で恥ずかしがるのか、なかなかいい言葉というのは探して見つかるものではないような気がする。だから一応書いてからしばらく寝かせたりするんだけど、そういう時でも意外と英語の単語ならぴったり表現できる、ということがある。たとえば、「よく行く街に"comfortable"な喫茶店が一つあればいい」と思うし、「自分のイメージは"vivid"に表現したい」と思うし、「時には"stupid"なアイデアがきっかけになることもある」と思うし、「すぐに諦めたり泣き言を言ったりするのは"cool"じゃないと思うし、「バネッサ・パラディは"coquettish"だ」と思うけど、こういう形容詞に込めた自分の気持ちを過不足なく伝えきる自信を持てる日本語をぼくは持たない。もちろん単語レベルでなく、一つのまとまった文章として伝え切れればいいんだけど、この表現で伝えきれていると自信を持てる場合と、実際に伝えきれている場合とは、必ずしも一致しないのが難しいところだ。どちらにも極端になってしまいたくはないし。でもたぶん、言葉を探すのではなく、もっともっと、どこまでももっと、ずしずしと、ひりひりと、どすんどすんと、色んな感情をこの体で感じて、駆け巡らせて、受け止めることに集中することが必要なんだと思う。

2005年9月18日(日)
秋の月。

すっかり秋だ。風は涼しいし、空は高いし、夜になると月もくっきりしている。昨日や今日のように月があんまりまん丸いと、夜の空に丸い形の出入り口がぽっかりと空いているように見える。どうにかあの月まで行くことができたら、あの丸いところから向こう側に行けるような気がする。でもそう考えると、ちょっと怖くなった。向こう側に出た瞬間にその出入り口がすっと閉じられてしまって、自分だけ向こう側に取り残されて、明るいのは出入り口付近だけで向こう側は真っ暗で、どこまでも「無」が続いていて、だけど無に向かって進んでいくと帰り道の目印となるようなものは真っ暗闇の中で何もなく、だからぼくは閉まってしまった出入り口の外側に必死にしがみついて、でも地球はぼくがしがみつくにはあまりに大きくて、だから何か外側からの力によって引っぺがされるように無に向かってゆっくりと吸い込まれていく……。そんなところを一気に想像してしまった。怖い怖い。ぼくはちょっと怖くなると、そこから加速度的に怖くなる。

2005年9月17日(土)
レンタルビデオ屋さん。

一つ向こうの駅の近くに最近よく行く喫茶店があって、ついでにその近くにあるレンタルビデオ屋さんに立ち寄ることも多いんだけど、立ち寄った回数の割りに実際に借りることがかなり少ないのは、いざビデオを借りようと思うと、いや、これはちょっとなぁ、もしかしたら面白くないかもしれんし、う〜ん、どうしよう……、と消極的になってしまうからだ。何かの折にいつも以上に消極的になってしまうということは色々あると思うけど、ぼくの場合、ビデオを借りる時がもしかするとその典型かもしれない。それぐらい、ビデオを借りられない。ビデオを借りられない病だ。それに、普段は観たいビデオとか、ビデオが出てから観ようと思う映画が何本かあるくせに、いざビデオ屋さんに行くと、すっかり忘れてしまう。思い出せない。それでメモしたりしていた時期もあったけど、それでなくてもメモに埋もれてしまいそうな机の上がメモだらけになってしまって、なんだかそんな自分が嫌になってきて、自分を嫌いになってまでストレスなくビデオを借りて観たいのかというと、もちろんそんなはずがないので、ビデオに関してはメモも諦めた。そんな紆余曲折を経ると、今度はそのビデオ屋さんのレイアウトに問題があるのかもしれない、と他人のせいにしたくなったりもする。少なくともビデオ屋さんのレイアウトとぼくの性格は合わないような気がする。本や映画の分類ほど怪しいものはないということだ。かえって混乱する。たとえば、新作の場合は新作だというだけで分かりやすいところに置いてあって、そんなつもりはなくても見つけてしまうけれど、新作はすぐに返さないといけないので、週に一度行くか行かないかぐらいのビデオ屋さんで借りるわけにはいかず、だけど新作じゃなくなると、ビデオ屋さんのジャンル分けがぼくは苦手で、なかなか探すことが容易でない。だからせっかくメモなしで思い出した観たいビデオを、探す気がなくなってしまう。そして適当に手に取ったビデオに対しては消極的になってしまって、だから借りられなくなってしまう。膨大な量のビデオに囲まれて、借りたいビデオも見つけられず、無力な自分を感じながら店を後にしているんです。本屋さんでもそうだけど、ジャンル分けとか、出版社別、といった区分は、もしかしたら要らないのかもしれない。作者別(本屋さん)、俳優別、監督別(ビデオ屋さん)、あいうえお順(共通)、ぐらいが適当な気がする。どうでしょう? それと、ビデオ、ビデオと言っているけれど、最近はDVDですね。いまだにCDのこともレコードと言ってしまいます。34歳。

2005年9月16日(金)
オススメ度★★★★★

『コーヒー&シガレッツ』を観ました。2〜3人の人物が安っぽいカフェで、まずそうなコーヒーに砂糖をたらふく入れながら、何が起こるわけでもなく、別になるほどと思える会話があるわけでもなく、だけどただ、なんとなく楽しい。そして時々、ものすごくおかしい。そんな10分前後のショートストーリーが11篇収録されていて、その全てがコーヒーとシガレットにまつわる日常の風景の一場面を切り取っていて、本当に面白かった。カメラワークも独特で印象的でした。全く面白い映画を作る人がいるもんだ。俳優陣も個性的で、監督が面白そうだという理由で選んだ組み合わせ方でその個性がさらに増幅され、たとえばイギー・ポップとトム・ウェイツ、ケイト・ブランシェットの一人二役、ビル・マーレイとGZA&RZA、ビル・ライスとテイラー・ミードの話などは、もうサイコーにおかしかった。プロの仕事を見せつけられた感じがした。映像特典としてジム・ジャームッシュ監督のインタビューも収録されていて、撮影の裏話も少し聞くことができた。たとえばトム・ウェイツが不機嫌だった理由とか。映画を観て特に何かが得られるわけではなく、だけどリラックスできる。まさにコーヒーブレイクのための映画だと思った。ジム・ジャームッシュ監督自身がしゃべっているところを初めて見たけれど、頭の中に轟々と流れる膨大なイメージやアイデアがあって、だけどそれはそれで流れるままにほったらかしておいて、自分は自分のペースで語る、そんな感じでした。巨大な才能というか魂の持ち主なんだけど、とっつきにくさをまるで感じさせず、優しさが滲み出ているような不思議な魅力を感じました。

映画のオフィシャルサイトはこちらです。

2005年9月15日(木)
イメージ。

遠景も近景も含めて周囲がぼんやりとしている中でくっきりととらえられた被写体のように、

だけど少し角度を変えて見ると完璧に周囲と調和している、

そんな自分を俯瞰するつもりでイメージして、

たとえばそこが都会の片隅ならば降り注ぐ雨の優しさに身を任せ、

もしもそこが大自然のど真ん中ならちっぽけな自分を噛み締めて、

たとえそこが断崖の絶壁でも吹き上げる風を追い風に、

そこが芦屋の町ならば隣りの人たちに笑顔で挨拶を交わし、

柔らかで大きな手に包み込まれているような感覚を体温として感じていたい。

そんな全体像を意識しつつ、日々の瑣末な営みに取り組む。

あるいは、

日々の瑣末な営みに忙殺されても、そんな全体像を手放さない。

そんなイメージ。

2005年9月14日(水)
アイスノン。

長時間机に向かっていてボーっとなってきた時や、頭がモヤモヤする時のために、ベルト式になったアイスノンを買ってきた。頭に巻けばすっきりするかなと思ったんだけど、ズレてきてしょうがない。余計に気になる。ズレてこないようにきつく巻くと頭が痛くなる。しかも1時間もすれば冷たくなくなって、イマイチだ。でも慣れてくると微妙にズレてこない位置や角度があって、そうなるとやっぱり冷たい間の1時間は気持ちいい。アイスノンみたいなのは、とても原始的な発想だけど、とても有効だ。ということは頭も実際に熱を持ってくるということなのかな。……知恵熱か、この歳で??? 昼間に蓄積された都会の熱が夜間に放出されて熱帯夜となるように、オーバーヒートすると放出する先までが暖められて、そのうち行き場を失ってしまう。無理しないように、というのはそういうことか。放熱とは、生きていることの証だということもできそうだ。夏の暑い日なんかには、気温以上に自分が熱くなれば体感温度は逆に涼しく感じるはずだとかなんとか理屈をこねて気力を振り絞るようにしているのだけど、あんまりやり過ぎると「ひとりヒートアイランド現象」を起こしそうだ。シャワーをしていても太ももや胸などの比較的大きな筋肉の部分には冷たい水をかけるとじわじわと熱が冷まされていく感覚があって気持ちいいし、体のどこからもミストが出てこない以上、打ち水をするような感覚でアイスノンはやっぱり有効ということか? ぼくは独りで何を言っているんだ???

2005年9月13日(火)
501。

お気に入りのジーンズが、そろそろ大変なことになってきた。前のボタンホールが破れてきた。四つあるうちのこれで二つ目だ。よく見ると一つぐらいボタンをはめていない、というのならワイルドでカッコいいと思い込むことも可能だったんだけど、二つになると一気にカッコ悪くなる。カッコ悪いの極致だ。ぼくは大学の頃からリーバイスの501が大好きで、ぼくの一つ覚えみたいにこればっかり履いているんだけど、覚えているのは、「ボタンフライにすることで、半永久的に壊れる心配がない」みたいな宣伝文句だ。他のジーンズがジッパーを採用しているのに対し、501はその歴史を大事にして、未だにボタンフライになっている。でも他の品番を紹介するところでは「ここにジッパーを採用することで、着脱が便利に!」みたいなことを書いていたのも知っている。要するに、どっちでもいいんだ。どっちにしろ、言われた通りに理解したり、見たまんまに信じ込んだりしなければ、世の中に存在するものには全て存在意義があると言い切っていいのかもしれない。だから、どちらも真実で、どちらも真実である以上どちらも相反する部分を包含しているはずだということさえ押さえておけば、どっちでもいいんだ。たとえそれがボタンフライであろうとジッパーであろうと。ただ、半永久的に壊れる心配がなかったはずのボタンフライが今まさに壊れようとしているというのも、真実だ。

2005年9月12日(月)
何となく嫌だった。

阪神芦屋駅の踏み切りを越えるとすぐに信号があって、手前にはタクシー乗り場なんかもあるために、けっこう車が渋滞していたりする。今日も、遮断機が下りているわけじゃないんだけどその先の赤信号で車が三台ぐらい停まっていたために、踏み切りの手前にも車が並んでいた。その後ろにもずらりと何台も連なっていて、そのうち二台目の車が、おそらく踏み切りの向こうの信号が赤だということに気づかず、遮断機も下りていないのにどうして進まないのかということで、クラクションをビービービービー鳴らし始めた。前の車はクラクションを鳴らされたところで前の信号はまだ赤だし、踏み切りの向こうまで車が詰まっているために踏み切り内に進入するわけにもいかず、だからといってそれを後ろの車に説明する術もなく、そうこうしているうちに二台目の車は反対車線に飛び出して追い越した。追い越して、踏み切りを渡り、だけど信号で車が詰まっていたために自分の車線に戻ることができず、オロオロしているところに対向車がやってきて、その車はバックするはめになった。その車はバックして踏み切りを戻り、さっきの自分の位置は三台目の車が気を利かせて詰めずにいてくれたんだけど、二台目の車は縦列駐車の要領で入ろうにも技術が足りずにうまくいかず、そのままずらずらと連なる車の列の最後尾まで(そして線路付近にいたぼくの目には豆粒みたいに小さくなってしまうまで)、バックしていった。カッコつけようとして、あるいは自分の都合を押し通そうとして、それがどれだけカッコ悪くて迷惑なことなのかということに本人以外の誰もが気がついているという、とても大人げない一連の行為だった。歩道もないところだから歩行者も危険な目に遭うし、まったく迷惑な車だ。混雑しているところで誰かが勝手なことを始めると、さらに混乱する。きっとこうなることを予想して、二台目が先に行ってしまったからといって前に詰めずにいた三台目のドライバーは、余裕のある大人の対応だと思った。ただその好意も、二台目のドライバーの稚拙な運転のせいで無駄になってしまったんだけど。周りが見えなくなるほど自分勝手な人間にはなりたくない。関係のない人まで、嫌な気分にさせてしまう。

2005年9月11日(日)
政治。

選挙に行ってきた。投票所が設置されていた近くのテニスコートではテニスの大会が開かれていて、あたかも投票に来た人が後を絶たず、芦屋市民の選挙への関心の高さを物語っているのかと思えるほど、ものすごい人の数だった。ラケットをかついだ爽やかな中高年たちの間を縫って奥の方にあるクラブハウス内の投票所に向かい、入り口付近に置かれていた各政党を紹介した新聞に一通り目を通し、受付に並んだ。思っていたより早く済んだ。小選挙区の投票をして、比例区の投票をして、さらに最高裁判所裁判官の国民審査があるなんて、今回の選挙までぼくは知らなかった。「やめさせたいと思う裁判官」なんていう観点で裁判に注目したことはなかったし、どうしていいのか分からなかったけれど、これからも日々精進するように、という意味を込めて投票した(普段はおそらくそれほど注目されていない最高裁裁判官さんたちは、今日はどういう心境だったんだろうと、ちょっと気になった)。
 実は選挙に行ったのはこれが初めてだった。少し参加している実感みたいなのはあった。この結果が確定して、ぼくはおそらく今までよりは少し参加している実感を感じた分だけその結果に反応し、選挙をめぐる騒乱が落ち着いて、ぼくもおそらく普段どおりの日常を送るようになるんだと思う。小選挙区で落選した候補者に投じられ、議席に反映されない票のことを「死票」というらしいけど、でも、結果として自分の投じた一票が死票になってしまったからといって、無力感を感じることのない政治が展開されたらと思う。だけど、夜にも少しTVをつけたりして引き続き積極的に関心を示してはみたんだけど、なんとなくやっぱり、う〜ん……。くじけそうだ。せめて誰か、「お騒がせしました」と挨拶してほしい。

2005年9月10日(土)
ヒット狙い。

このHPのアクセスログを解析した時に、インターネットの向こう側にいる人たちが検索エンジンでどういう単語を検索してこのHPに辿り着いているか、ということが分かるようになっていて、しばらくその「検索単語ランキング」の一位が「ニコチャン大王」だった。つまり誰かがGoogleやなんかで「ニコチャン大王」をキーワードにして検索した時にぼくのHPがヒットして、それが他のどんなキーワードで検索した時よりも頻度が高いということです。このHPで「ニコチャン大王」が出てくるのは、BBSのページで「ニコチャン大王」というハンドルネームを使って投稿してくれている人がいるからであって、おそらく「ニコチャン大王」を検索した人が必要としている情報ではないはずだ。そういう点での申し訳なさもちょっと感じつつ、だけどそんなことよりも、「ニコチャン大王」がぼくのHPの検索単語として第一位なのかと思うと、おみゃーがぐずぐずしとるで宇宙に帰れん、みたいなことを家来に対していつまでもぐずぐずと言いながらアルバイトをして宇宙船を買うお金をせっせと貯めている頭が尻の宇宙人、を探している人の前に、呼ばれてもいないのにぼくのHPが手を挙げてへこへこと出て行っているような感じがして、なんとなくやるせなかった。でも、そう思うと今度はBBSに書き込んでくれているニコチャン大王に対して申し訳ないような気がして、だからぼくは苦悶の日々を過ごしていたんだ。だけど今日、「ニコチャン大王」を抜いて一位に躍り出たのが、「翻訳家」だった! 「翻訳家」について調べたくて検索エンジンを利用して、そしてぼくのHPに行き着く。これこそぼくが求めていた結果だ。健全なあるべき形だ(ただ、どうやらビジネス翻訳をやっている人を探している場合が多いようで、あんまりこのHPに興味を示してくれた痕跡が見当たらないのはちょっと……)。他には「チャップリン」、「キッド」、「赦免花」、「鏡の国のアリス」、「葉桜の日」……、とぼくが 【Favorites】 のページで書いたことが検索単語として上位にランキングされていて、これはこれで嬉しい。今日はこれだけ検索単語の上位群を盛り込んだので、これまで以上のヒットが狙えるはず???

2005年9月9日(金)
選挙。

毎日毎日、朝から選挙カーがうるさくてしょうがない。選挙カーで走りながらマイクでがなり立て、あれは誰に話しかけているんだろう。救急車やパトカーのサイレンと一緒で、ドップラー効果でおかしなことになっている。まともに聞き取れるのなんてほんの十秒程度だ。何のためだろう? 念のためか? しかも「お騒がせしております。○○党の△△、△△でございます……」とうるさく連呼するのは、投票日の前までだ。選挙が終わって、その結果がどうであれ、「お騒がせしました」とあともう一日だけ周回すれば、その候補者の名前ぐらいは覚えようかとも思うのに(選挙が終わってから覚えられてもしょうがないかもしれないけど、後片付けみたいな感じで大切なことのような気がする)。駅前など人通りの多いところできちんと話をしている方がよっぽど理にかなっている。興味のある人は足を止めるだろうし、興味のない人は素通りするだろうし、強制的なところがない。それでも、「△△本人がこうして、みなさまにご挨拶させていただいております」と、本人が出てきたことがさも特別なことかのように言い出すと、何様かと思う。そんなの当たり前じゃないか。さらには「国民の皆様のために……」と声高に頻繁に言われると、嘘っぽく聞こえてしょうがない。「国民の声」を後ろ盾にしてほしくない。そこで言う「国民の声」は本当に国民の総意なのかと反発したくなる。選挙後ならいいかもしれないけど。とにかく、何を声を嗄らしてまで盛り上がっとんねん! という感じだ。選挙への関心の持ち方やその表現方法は人それぞれでいいはずで、何も選挙期間だからといって国民は一日中選挙のことばかり考えているわけではない。それに候補者の人がぜひとも主張したいと思っていることとぼくたちが知りたいと思っていることはもしかしたら違うかもしれないんだから、たとえばマニフェストや候補者のレジュメなんかを欲しいと思った時に、分かりやすいのから詳しいのまで、色んな手段で簡単に入手できる体制をいつでも整えて、そういう体制が整っていますんで、と周知徹底することにもうちょっと力を入れた方がいいように思う。本当に政策とかを具体的に理解してもらおうと思っているのか、それともイメージやインパクトを優先させようとしているのか、戦略としてどちらかを選択しているのならそれでもいいけど、少なくとも他党の批判に終始したりせず、自分の信念で行動して欲しい。国民は意外と真面目に考えていると思う、……もちろんぼくも含めて。

2005年9月8日(木)
夢。

久しぶりに夢を見た。最近の傾向として、空を飛んでいる夢か、追いかけられている夢が多い。どちらもわざわざTSUTAYAまで行ってビデオを借りたりしなくて済むぐらいスリリングだ。今日は、追いかけられた。定休日か何かで誰もいないデパートみたいなところで敵に囲まれていて、ぼくは設定としてはけっこう強いはずのヒーローで、ドラゴンボールのカメハメ波みたいな技を繰り出すんだけど、それはピンポン球を思いっきり投げた時のように初速は速くてもすぐに減速してしまう威力のないもので、目がけて投げた敵の腹に、ぽんっ、と当たって終わりという何とも頼りない必殺(?)技で、しょうがないからぼくは、お茶の間のちびっ子たちは嘆くだろうなぁ、と思いながら逃げ出した。上りのエスカレーターを逆走し、階段を五段飛ばしぐらいで駆け下り、ガラス窓を突き破り、とにかくこっちは必死なのに、敵は余裕で先回りして待ち構えていて、「キャッチャブル、キャッチャブル」と呟いている。それは、仮面ライダーに出てくるショッカーが「キキィーッ!」と言っているようなものなんだけど、たぶん英語にすると「catch-able」ということで、「お前なんかいつでも捕まえられるんだぞ、逃げ切れるものか」ということのはずで、その声を聞くたびに背筋にぞくっと悪寒が走るような効果を持っていた。少なくとも、ぼくのカメハメ波もどきよりはよっぽど効果的だった。ぼくはいつ捕まるんだろうかとビクビクしながら必死で逃げていた、ヒーローなのに。ようやくどうにかデパートの外に出て、そのまま田んぼの畦道を走って逃げていると、「やぺっちFC」でおなじみの堀池さんが電柱に引っかかった凧を取ろうとよじ登っていたり、そんな意味不明のシーンも織り込みつつ、ぼくはひたすら敵から、そして「キャッチャブル、キャッチャブル……」という声から逃げていた。そして朝の八時に目覚ましが鳴って、ゴミを出しに行くために起きたところで、当然夢は終わった。そういえば、大勢の敵に囲まれていたにも関わらず戦闘員ばかりで、メインの敵がいたのかどうか思い出せない。メインの敵がいなかったとしたら、けっこう地味な回だったか、もしくはぼくが特にメインのヒーローだったわけではないか、どっちかだ。とにかく、めちゃ怖かった。捕まるかと思った。

2005年9月7日(水)
迷惑メール。

一昨日、昨日、今日と、三日連続で朝早くから迷惑メールが5件ずつぐらい来た。迷惑メール強化週間か!? PC宛てのメールも携帯に転送されるようにしているので、うるさくてしょうがない。迷惑メールは、迷惑だ。意図が分からない。暇なんか? ちゃんと仕事せえ、と言いたい。それともそれが仕事か? それにしても、色んなところで顧客情報が漏れたというニュースがあると、そのことごとくにぼくも含まれているような気がする。そんな気がするぐらいの頻度で、「お知らせ」であったり「お願い」であったり「お詫び」といった書類が届く。そのせいでもないだろうけど、迷惑メールが最近よく届く。アンチウィルス・ソフトが奮闘してくれているはずなのでぼくは無視していればいいんだとは思うけど、いい気はしない。送信者名も件名も内容も多岐に渡るので、ある程度以上は防ぎようがない。
 でも最近は、周囲の騒音とか迷惑をある程度無視できるようになってきた。少し落ち着いて考えれば腹の立つことなんてどうでもいいことが多く、そういうコトや人は相手にしないと決めれば、平穏な生活を送ることができる。……と言いたい。思いたい。思い込みたい。思い込ませてください。

2005年9月6日(火)
Waiting On A Friend.

今年で確か共に62歳になるミックとキースの出会いは、4歳の頃にまで遡るらしい。キースが公園の砂場に行くと、バケツを持ったミックがいたという。本当かな。本当なら楽しい。60年近くも付き合っていると、仲違いをしていた時期もあっただろうけど、思い出すのは81年の "Waiting On A Friend"という曲だ。プロモーションビデオも歌詞の内容に沿った作りになっていて、とてもほのぼのとしている。「いい時代だ」と思える。ミックがアパートの戸口の前で歌を口ずさみながら待っているところに、キースがタバコをふかしながらやってくるというもので、ミックはそれなりにいい格好をしてきちんと時間通りに待っているんだけど、キースはそんなことにはお構いなしに、ゴミ箱を漁っていそうな知った顔を見かけては手を振ったり握手したりと寄り道ばかりしてなかなかミックの待つアパートに辿り着かず、ミックも次第にソワソワし出して、キースはようやく到着するとミックの気も知らずにしわくしゃの笑顔を見せて楽しげなんだけど、その横でミックはキースのタバコが煙たくてたまらないといった顔をしていて、でも二人で仲良く町に出かけるというものだった。CD発売やツアーといった情報の一つ一つに世界中が騒いでしまうストーンズのビッグなイメージはなく、幼馴染の二人が久しぶりに休日を一緒に過ごすといった雰囲気が和やかで懐かしく、しなやかにメロディアスな曲はもちろん、ぼくはそのビデオも大好きで、そのイメージが強いこともあって、4歳の時に砂場で出会ったというエピソードも、きっとそうだったんだろうなぁと思える。なかなか気づかないというか忘れてしまいがちだけど、友達を待っている時間には無邪気さとか楽しい気持ちが満ち溢れていて、そんな感覚を歌にしてしまうストーンズがすごく好きだ。

2005年9月5日(月)
アンパンマンパンの思い出。

近所の本屋さんに行ったけど目当ての本がなかったので、そのまま芦屋川沿いを少し散歩した。その前に、本屋さんの隣りのパン屋さんでパンとコーヒーを買って、腹ごしらえをしてから散歩した。そこはぼくが大学時代にアルバイトをしていたパン屋さんの系列で、アンパンマンパンとかを売っている。丸いパンの表面にチョコレートでアンパンマンの顔を描いたもので、ぼくも作ったことがある。アルバイトを始めて間もなく、まだ他には何もできなかったので、「じゃあ、これにチョコレートでアンパンマン描いてくれるか」と言われたんだけど、当時ぼくはアンパンマンを知らなかったので、店に並んでいるアンパンマンパンを見て、それを真似しながら描いた。すると、「これはアンパンマン言わんやろ?」と言われた。店に並んでいるアンパンマンパンのアンパンマンはその店長が描いたもので、ぼくの描いたアンパンマンはそれと比べるとほとんど同じだったのに。でもまぁもう描いてしもたもんはしゃあないなと言われてその日はそのままアンパンマンには見えないアンパンマンパンを並べ、その日のバイトを終えたぼくはさっそく本屋さんでアンパンマンの絵本を探した。確かに、あれじゃアンパンマンには見えないと思えた。アンパンマンは一回覚えてしまうと描くのはそれほど難しくなく、次の日以降、ぼくはアンパンマンパン係としてしばらく活躍した。
 それから数年して、姪っ子たちのヒーローがアンパンマンでヒロインがメロンパンナちゃんだった頃、ぼくはアンパンマンパズルやアンパンマンかるたで遊びながら、アンパンマンパンを作る場合のアンパンマンの肖像権や作者の著作権はどうなっていたのかなぁ、と思ったりしながら、当時のことを懐かしく思い出していた。

2005年9月4日(日)
成功の秘訣。

色んな雑誌や講演で成功の秘訣を特集していたりするけれど、失敗した経験があるならその理由を考えることが次以降に向けての成功の秘訣なのかなぁ、なんて思う。あるいは、そんなことに気を取られず、その時その時の選択に全てを注げば、気がついたらそれなりに思った通りに事が運んでいるとか。成功を追い求めるというスタンスじゃなく、いつか振り返った時に、納得できていればいいなぁと思う。考え方次第というか、こんな観念論的なことに思いを巡らせたところで何の役にも立たないし、そもそも成功なんてどういう状態のことを言うのか分からないけれど、なんとなくそんなことを考えた。
 ぼくは今、やりたいことがやれているんだと思う。もちろんまだまだ違った切り口からも色々検討していかないといけないことがあるんだけれど、基本的にはこれを続けていけばいいんだとは思う。だけど、一つ一つの締め切りを無事に終えた直後に心地よい疲労感のようなものは感じても、達成感なんていうのは微塵も感じたことがない。失敗とまではいかなくても反省すべき点は多くあり、その理由を考えて次以降に活かし、そうすることで「比較的」納得のできる仕事ができる環境を整え、それを繰り返し続けていくことになるような気がする。その途中でなかなか成功だ失敗だと振り返るタイミングが現れるような気は、今はしない。ただ、そこに情熱の対象のようなものを見出すことができれば、それはぼくにとって日々を過ごしていくべき価値のあるものなんだというふうには思う。

2005年9月3日(土)
スピード違反。

この近所は国道から少し離れただけで結構落ち着いた住宅地なんだけど、今日は珍しく業者さんらしき人の軽トラが、おそらくスピード違反で掴まっていた。この辺でスピードを出して走っている車を見かけたことはほとんどなく、珍しいなぁ、と思いながら通りかかった時に運転手さんを見ると、運転席で両手を頭の後ろに組み、いかにもふてくされてます、といったポーズを取っていた。分かるなぁ、その気持ち。と思いながら通り過ぎようとしていると、「ちょっと早よしてんか!」と聞こえてきた。分かる、分かる。別におまわりさんがそれほどのんびりしているわけでもないだろうけれど、やり場のない苛立ちが収まりきらず、文句の一つや二つ言いたくなるんだ。
 田舎のタクシーの運転手なみに安全運転で有名なぼくも、十年ぐらい前に一度だけスピード違反で捕まったことがある。友達と三人で和歌山で遊んだ時のことだけど、三人が三人とも自分の車で来ていた。ひとしきり遊んで、阪和道に乗るところで解散した。解散したとはいえ、三人とも大阪方面に帰るのでずっと道は一緒だなと思っていたんだけど、二人はものすごいスピードであっという間に見えなくなってしまって、ぼくは、まぁいいか、と思って一人でストーンズでも聴きながら運転していたんだと思う。どの辺だったかは覚えていないけれど、カーブを曲がった辺りの路肩に車が一台止まっていて、ぼくは「故障かな」と思い、ちょうどブースターケーブルを調達したばかりだったし、止まってあげようかと思ったんだけど、その直前に車を一台抜いたばかりで追い越し車線を走っていて、走行車線にも何台か車が続いていたので止まってあげることができず、しょうがないからそのまま走り去ることにした。少しして、後方からウワァ〜ン! というサイレンの音が聞こえてきた。バックミラーに映るパトカーを確認し、ぼくは進路を譲るつもりで走行車線に変更した。するとそのパトカーも車線を変更してぼくの後ろに付けてきた。何やら拡声器でしゃべっていたけれど、あれはカーステレオなんかをつけていると聞こえないもので、事態が飲み込めないぼくはそのまま走っていると、パッシングされた。ようやく、どうやらぼくに用事があるようだということに気づき、減速し、ハザードを出して路肩に止まった。パトカーはさっきぼくが故障かなと思っていた車だった。困っているのなら助けてあげようかなと思っていた車が覆面だったのだ。何キロ出しとった? と訊かれ、ちょど一台抜いたところだったし、どれだけ出していたんだろうと自分でもちょっとビビリながらパトカーに装備されている速度計みたいなのを覗き込むと、107キロだった。制限速度が80キロの区間だったから27キロオーバーではあるけれど、107キロ。一台を追い抜いたとはいえ、二人の友達を含め、ぼくよりも速い車だらけの中で。スピード違反で捕まる時はそんなもんだ、……なんて思えない。「急いどったんか?」みたいなことも言われた。こっちの気分を逆なでするだけの効果しか持たない質問だ。そんなスモールトークに付きあう気には到底なれない。「別に」とぶっきらぼうに答える人が、100人中150人はいるはずだ。「○○円ね」と罰金額を言われ、その場で払おうとすると、「ここでは受け取れんのやわ」と拒否され、たしか後日振り込んだんだと思う。そこから当時ぼくが利用していた吹田ICまで、きっちり80キロで走ってやった。後ろから2トン車にパッシングされても、地面すれすれの改造車にあおられても、ぼくはおまわりさんの言う通り、80キロを厳守した。十年ぐらい前のことなのに、思い出していると腹が立ってきた。スピード違反で捕まるのはバカらしいし、十年経っても思い出すと腹が立つので、車に乗る時はみなさんも気をつけてくださいね。それにふてくされて高速を80キロで走るのは危険ですよ。迷惑ですしね。

2005年9月2日(金)
CCCD。

東芝EMIから発売されたストーンズの新作はCCCDだった。それは発売前から知っていた。だから買うつもりはなく、一週間遅れで発売される輸入盤を買うつもりだった。そして昨日久しぶりにタワーレコードに行くと、出入り口付近の一番目立つ場所にやっぱり視聴コーナーが設けられていて、一応視聴してみた。一曲目から、それはそれはラフでタフなロケンローが鳴り始めた。こんなのを聴いてしまった後で、たとえ一週間でも待てるはずがない。だけど、いやいやこれはぼくが買いたいCDじゃない、CCCDなんだ、一応聴いてみただけなんだと自分に言い聞かせ、やっぱり輸入盤を待とう、と思ってタワーレコードを後にした。それから本屋さんに行き、本屋さんで用事を済ませ、タワーレコードの前を素通りしてマツモトキヨシに行き、マツモトキヨシで用事を済ませ、それから阪神電車に乗って帰ってくるつもりだったのに阪神電車乗り場を素通りし、真っ直ぐタワーレコードに向かい、他のコーナーには見向きもせずにストーンズ売り場に行き、日本盤を手に取り、そのままレジに直行した。
 ところでコピーコントロールだけど、ぼくも著作権とかが関係してくる分野で仕事をしているので一応理解はしているつもりだけれど、それにしてもCCCDにはどう対処していいのか、色んな解説書を読んでもよく分からない。「一部」プレーヤーでは再生できないとか、再生できてもコピーコントロールの信号のせいで音質が劣化する「可能性がある」とか、そのためプレーヤーの寿命を縮める「場合もある」とか、わりとぶっきらぼうだし、それぐらいを理解するのが精一杯で、あとは専門用語がいっぱい並んでいる。だから余計に得体の知れないものに対する時のような恐怖が残る。消費者に対する説明の不親切さという点では、群を抜いているような気がする。それなのに理解しておくべきこととして求められることが多すぎるような気がする。だから、こんなことをごちゃごちゃと言わなくてすむように輸入盤を買うつもりだったのに、国内盤を一週間先行して発売するというのはまさにぼくみたいなのをターゲットにしているんだろうな、なんて妙に納得してしまった。八年ぶりにストーンズの新作だというのに、そんなこんなで実は純粋に心待ちにできなかった。だけど、それを補って余りあった。

2005年9月1日(木)
独り言。

昼過ぎ、極度の睡魔に襲われて3時間ばかり泥のように眠った。昨日の日記で、ごろごろと寝ているばかりが休息じゃない、みたいなことを言っておきながら、今日は本当に電池切れみたいな感じだった。丸太のようにどてっと倒れこんで、んがっ、と寝てしまい、目が覚めるととっぷりと日が暮れていた。昨日はまだ気分が高揚していて疲れに気づかなかったのかもしれない。運動不足かも。頭と同じだけ体も疲れさせないと、ものすごくアンバランスを感じる。それに、やることはどうにかできたとしても、少なからず効率が悪くなってしまっていたはずだ。ということぐらい経験上分かっているんだけど、頭の疲れがひどくなると、そういうことに意識が回らなくなる。アンバランスがひどくならないうちに体を動かして調整するか、そうじゃないと今日のようにひどい疲労感に襲われて3時間も機能停止してしまう。でもその後はすっきりしている。おかげできりのいい今日からまた次の仕事にとりかかるという予定にはどうにか間に合った。ということは、結果オーライだ(もちろんぼくは結果オーライ主義ではない)。スケジュールを立てる時にはこういう半日分をすぐに忘れてしまう。自分の傾向と対策を練りたくなる。……それにしても、今日のような日記を書いていると、独り言を言っているような気がしてしょうがない。

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