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あの頃、その池には一羽のアヒルが棲みついていた。俺はそのアヒルを「ダック」と呼び、ダックも俺に懐いていた。にぎやかな都心にあって、ぽつんとそこだけ手つかずのままの緑が残された、小さなオアシスだった。そこに現れた一羽の天使。破れた柵を隔てて、俺は風雨にさらされてペンキも剥げ落ちた畔のベンチに腰を下ろし、よくダックと戯れた。よちよち歩く後姿など、愛くるしくて仕方がなかった。買ってきたパンを千切ってやると、うれしそうにバシャバシャと水しぶきをあげながら近づいてきたものだ。荒れ放題の周囲は高く伸びた雑草に囲まれ、ゴミが散乱し、誰もそんなところに落ち着こうなんていう物好きな連中はいなかった。俺と、ダックだけ。春になると、ハイジがブランコでもしてそうなほどに青く澄んだ空の下、ビールの空き缶やコンビニの袋などが風に吹かれて転がっていた。それでもベンチの下なんかに目をやると、ひっそりとタンポポが咲いていたりするような、そんな素朴な公園だった。地面スレスレのところに黄色い花を咲かせ、綿毛を風に乗せて運ぶタンポポは、周りが汚されても踏み荒らされてもしっかりと根を張り、舞う蝶が戯れ、その種子は自由に風のままに、そして何も語らない。花を咲かせることに脇目も振らずに懸命な姿で風景にアクセントをつけ、優しく咲くタンポポの強さには、高級ホテルのスイートルームに飾られた大輪の花もきっと、脱帽するだろう。過剰に自己主張することもなく、それでいてその可憐さはなかなか無視できるものではない。そんなタンポポの咲く公園が、俺の好きな場所だった。
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俺はひたすら走った。あえて衝動を掻き立てるように、自分では自分の意思で走っているつもりで、俺はひたすら走っていた。ときおり海から吹く風に溺れそうになりながら、それでも走り続けた。振り払いたかった。何かをしていないと不安で、朝だろうが夜だろうが関係なかった。時間の感覚がないなら、自分の勢いで自分の周りだけでも時空ごと歪めてしまいたかった。それなのに、迷いを振り切りたくてとった行動に惑わされていたようにも思う。押し込めた感情、行き場を失った気持ち、噛み締めた不甲斐なさ、全てを大切にしたくて、大切にしたくて俺は、これ以上自分が傷つかぬよう目を逸らせていた。とても大きな決断は、もしかするととても大きな無責任にもなりかねない。だけど、ため息まじりに気合いを入れて重い腰を上げ続けるなんて、まっぴらだった。昨日のことなんか忘れっちまって、明日だけを夢見ていたい。俺はくしゃくしゃになった紙片をポケットから取り出して、思いのたけをできるだけ子供じみた表現で殴り書いた。
「負けへんぞ、やったる、本気じゃ。こんなんであくか。やる言うたらやるんじゃ。先頭打者のくせに満塁ホームラン打つつもりで打席に入っとったやないか。一球で試合終わらせたるつもりでマウンドに上がっとったやないか。あん時みたいに燃えたる。燃えるんじゃ、見とけ。俺の生き方、見とけっちゅうんじゃ。汗しぼり出したる。血ぃにじむまで握りしめたる。歯くいしばって奥歯ぼろぼろじゃ。それでもやるんじゃ、やったるんじゃ。たらたらしてられるか。輝いたる。俺の生き方、輝かせたる。見とけ、やったるんじゃ」
……そう書いてなお、気持ちが休まることはなかった。単純な俺は、この身を極限状態に置こうと考えた。余計なことは考えず、朦朧とする意識の中でこそ、自分が本当に大切にしたいと思うものが何なのか、分かるかもしれないと思った。
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運命のひとひねり――人生が偶然の積み重ねだとはよく言われることだ。ある朝、いつものように目を覚まし、いつものようにパンを買ってダックの池に行くと、そこにダックの姿はなかった。全てが俺には分かっていた。色んな思い出が頭を過ぎった。全ての辻褄が合った。俺は鼻の奥にしょっぱい涙をこらえながら、構うことはないさと自分に言い聞かせ、言い聞かせながら俺は、あてもなく走り出していた。胸にぽっかりと大きく開いた穴に、風が冷たかった。風がひんやりと胸に冷たかったんだ。これも運命だというのか。確かにこれまで何度か差し掛かった曲がり角で別の道を選択していれば、今頃は別の人生を歩んでいたかもしれない。一つ一つの選択が偶然だというのなら、そうかもしれない。だけど、そうだとしたら可能性なんて過去にしか見出せないことになる。選択しなかった人生に想いを馳せるしかできないじゃないか。運命が俺の何をひねったというのか。違う、そうじゃない。俺のとってきた行動は、俺の責任でしかないはずだ。
俺が態度で示すことにこだわって多くを語ろうとしなかったのは、俺の拙い言葉に複雑な気持ちの全てを託すことが恐かったからだ。びびってたんだ。言葉を使い果たしても、伝えきれるとは思えなかった。だから俺は、華やかな世界よりもダックのいる公園を選んだのかもしれない。でも、それは諦めに過ぎなかったんだ。努力が足りなかったんだ。現代の吟遊詩人と称されるある天才ミュージシャンが言っている。一番得意な楽器はボキャブラリーだと。それはつまり、色んな表現方法がある中でコトバもその一つに過ぎないということでもあるだろう。ダックといることが心地よかったのは、言葉を交わさずにすんだからだ。言葉を交わさずにすむということはだけど、他に心を通わせあう術を探す必要があったということだったんだ。心を通わせあえていると思っていたのは俺だけで、俺の思い込みだったんだ。俺は心地よさという甘えの上にあぐらをかいて、ダックが一人ぼっちだということにすら気づいてやれなかった。自分の幼さが招いた結末だった。ダックは閉塞的な公園にいて大きな空を振り仰ぐことはできなかっただろうけど、大きな自由を求めていたことは間違いない。それが、偶然なわけがない。俺は自分ひとりの事情に自分を閉じ込めてしまっていたのかもしれない。
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近くの川まで散歩に出かけた。川べりの道を歩いていると、秋の風が鼻先をくすぐってゆく。咲き乱れるコスモスが揺れていた。こんなにも青くて高い空を、こんなにも落ち着いた気持ちで眺めやるのは何年ぶりだろう。俺は芝生の上に寝っ転がり、しばらく目をつぶっていた。空に吸い込まれていきそうな、大地に飲み込まれていきそうな安らぎを感じる。今までは走る速度、あるいは流される速度を自分でコントロールできていなかった。たとえて言うならば、バランスをとるのに必死で周りの景色を見る余裕もなく、ふらふらと今にも沈しそうな初心者カヌーイスト、といったところだろうか。でもそんながむしゃらな時代の中でつかんだ生き方こそが、生活の知恵につながっていくような気がする。そう思いたい。
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眠ってしまっていたのだろうか、目を開けると太陽はずい分と西に傾いていた。川面が朱色に美しく染まっている。今まで俺をとらえて離さなかった孤独感や欠落間、疲労といったものを、少し忘れることができたような気がした。日常の喧騒を離れ、束の間の平安。それでいいんだ。そういう束の間を期待しながら、そういう束の間がまた次にやってくるまでを頑張れたら、それでいい。一歩一歩、そしてまた一歩、だけどそこはまだゴールじゃないから、立ち止まる必要はない。次の一歩を踏み出すだけだ。刹那的かもしれないけれど、今の時点での俺のスタンス。たとえそれが束の間の幻影であったとしても、過ぎてゆく日々に充実の時があれば、それ以上何を願い、何を望むことがあるだろう。努力した分だけ報われることを期待して努力するなんて、そんなセコい考えはもう捨てる時が来たんだ。ただ自分の心に耳を傾けながら、自分の可能性と社会の多様性が出会う場所を見つけられたら、そんな幸せなことはない。
おそらくあの公園は俺にとっての洛陽の西の門で、ダックはそこに現れた片目眇の老人だったんだと思う。そして俺の心に巣食っていた弱虫こそが、峨眉山の魔性だったんだ。ならば俺は、「何になっても、人間らしい、正直な暮らし」をこれからは選択していくだろう。そして俺の心配などする必要のなくなったダックが、もっと大きな本当の自然の中で、仲間たちと幸せに暮らしていればいい。俺は今、木枯し紋次郎が新しい草鞋の紐を結ぶ時のような、宮本武蔵が巌流島に向けて漕ぎ出した時のような、シュローダーがピアノの鍵盤と対峙する時のような、そんな清々しい覚悟ができている。
さぁ、牛乳でも飲んで一息入れたら、明日からはまた日々を生きていこう。そう、運命なんて俺にはどうすることもできないからこそ運命なんだ。
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