| Tears In Heaven | |
| 駅前のコーヒーショップで遅めの朝食を済ませた後、雨のつたう窓越しに、通りを往く人の流れを見ていた。まだアスファルトにはねる雨粒がツルのように見えていた頃、雨の日には雨の日なりの遊び方が当然のようにあった。服がどろんこになっても、長靴の中までびちょびちょになっても、その日なりの精一杯で遊んでいた。そこに迷いなどなかった。体育の時間が大好きで、文集には将来の夢は体育の先生と書き、運動会の前の日に雨が降るとユーウツになっていた少年が、それなりの経験を経ていっちょこ前に自分なりの生き方みたいなことに気づいてしまい、それが故にどこにも辿り着けずにいるのが今のぼくだった。 「なに考えとん?」 「ん? あぁ……」 抜け切らないぼくの方言を真似てエリコに声をかけられるまで、いつの間にかぼくは、遠い日の小学校の校庭を思い出していた。ぼくは何才だったろうか、敦ちゃんの運動会に家族で応援に行っていた。ジャングルジムのそばにレジャーシートを広げ、弁当の後のみかんを頬張りながら、そこには笑っているばあちゃんがいた。敦ちゃんが通う小学校は、ぼくの通う幼稚園を過ぎ、坂を上ったところにあった。夏になると、蝉がうるさく鳴く坂だった。その丘の向こうには、海が見えた。小学校の高学年になってぼくが所属した少年野球チームの練習場でもあったその校庭は、校舎と山に囲まれて、特に山側は日当たりが悪かった。雨上がりの練習前には、外野のあたりにできた水溜りをスポンジで吸い取らなければいけないのが、面倒でもあり楽しくもあった。その運動会のことは、ほとんど覚えていない。ただ、父さんと母さんがきちんと整理していたアルバムのおかげで、確かにぼくたちと一緒だったばあちゃんの笑顔を見ることができた。その写真を、今でもよく覚えている。ぼくがその姓を継いだ伊達のばあちゃんだ。 ぼくは川口家に生まれ、今は伊達という姓を名乗っている。母方のばあちゃんが死んだのはぼくが小学校五年生の時だった。いつもと同じように学校が終わり、いつもと違うのは歯医者に行かなければならないということだった。それがイヤで、石とか蹴飛ばしながらのろのろのろのろと帰ってくると、母さんが慌てて自転車で出て行こうとしているところだった。 「どこ行くん?」 「ばあちゃん倒れたんよ。病院行くから、淳も早よ用意しぃ」 「歯医者は?」 「それどこちゃうやろ」 ばあちゃんがそんな大変なことになっているとも知らず、歯医者に行かなくてもよくなってぼくは喜んだ。そして、ばあちゃんは自分の干支になるのを待つようにして、元旦に息を引き取った。ぼくの名字が実際に変わったのは、高校二年になってからだった。 平成元年 三月三日 父と母、協議離婚、親権者を母と定める。 〃 三月七日 父母婚姻により、父母の共同親権に服するに至る。 戸籍を見ると、改姓の経緯が二行で説明されている。「詳しくは割愛するけど、川口が家の事情で伊達になったので、みんなよろしく」。戸籍以上にシンプルな担任の説明に、クラスメートのほとんどは両親がいわゆる離婚をしたと思い込み、ぼくはしばらく気遣われていた。いちいち訂正して回るのも億劫で、ほったらかしていた。伊達の姓をどうするとか誰が継ぐとか、そんな話はきっと両親や親類の間ではそれまでにも出ていたんだと思うけど、ぼくはその事の重大さとか、ばあちゃんや母さんの気持ちにまるで気づくこともなく、野球ばっかりやっていた。ぼくらのチームは強く、父さんも母さんもよく試合を見に来てくれた。 * * * 父さんの仕事の都合で、小学校一年から四年までの間、ぼくらは実家のある勝浦から車で一時間ばかり離れた本宮という町に住んでいた。電車も通っていなくて、でも電車なんかなくても毎日の生活に何一つ不自由なことはなかった。少なくとも小学生のぼくにとっては、山や川や友達が生活の全てだった。一年生がぼくを入れて8人、全校生徒数が72人という小さな学校で、ぼくは入学式の日から同級生とけんかをした。新入生はティッシュで作った花を胸につけてもらって式にのぞむのだが、誰の花が一番大きいか、ということが原因だった。 「ぼくの一番や」 「俺のやろ」 まだよく知らないクラスメートたちが交わすそんなやりとりに口を挟んだぼくが良くなかったのだ。「塩崎さんの方がでっかいんちゃう?」異論を唱える新参者が気に入らなかったのか、「何言うてんねん、塩崎さんは可愛いやんけ!」と食ってかかられた。いくら何でもそんな言い分はないだろうと戸惑いつつも、「花の大きさやろ? 関係ないやん」と言い返した。言ってしまった時にはすでにくだらないと思っていたのだが後には引けず、でもやっぱりどうでもいいことに違いなかった。「じゃあ、可愛いないか!?」……何に気を遣っているのか、ぼくは強く自分を主張する少年ではなかった。 初日をそんな感じで迎えたぼくの小学校生活は、ばあちゃんを勝浦に置いてきたまま始まった。週末になると父さんの運転するスバル・レオーネで勝浦に帰り、ばあちゃんとこにも遊びに行った。ばあちゃんが泊まりにくることもあった。ばあちゃんは駅をはさんで反対側の町に住んでいた。足の悪かったばあちゃんは、駅の歩道橋を越え、うちまではるばる歩いてくるのだった。そんなばあちゃんを迎えにぼくはばあちゃんのルートを逆に辿り、駅のあたりでその姿を見かけると嬉しかったことを覚えている。ばあちゃんの手を引き、急かすように一歩も二歩も前を歩くぼくは、ばあちゃんと一緒にいることで、ぽわぽわとした暖かでやわらかな幸福感に包まれていた。でもぼくたちは日曜日の夜には本宮に戻らなければならなかった。それも『西遊記』の始まる八時までに。帰路につく車の中で『モンキー・マジック』を歌い、桜のトンネルとぼくらが呼んでいた山道に目を輝かし、にぎやかな週末を終えて次の週末を心待ちにしてくれていたはずのばあちゃんの寂しさとかは知らなかった。 * * * 「ばあちゃん誕生日やで。電話したんなぁ」 ばあちゃんの誕生日は2月の17日。何年のかは知らない。時間の感覚は、幼い頃にはあまりないものだ。一年よりは一日の長さの方が実感できる。畳の縁とミニカーがあれば一日中遊んでいられる子供にとって、認識できる時間的・空間的広がりには限界があるということだろうか。ぼくはシャープペンシルとか匂い付きの消しゴムとか、こまごまとしたくだらない宝物をお菓子の箱とかに詰めて、毎年ばあちゃんに贈った。母さんにダイヤルしてもらって、敦ちゃんとぼくはかわりばんこにばあちゃんと話をするのだが、恥ずかしくて何を話していいのか分からず、すぐに母さんに受話器を渡すのが常だった。週末になって勝浦に帰ると、ばあちゃんの家の台所の引き出しにはぼくが贈った消しゴムとかシャープペンが入っていた。週に一度来てもご飯を一緒に食べて帰るかどうか分からないぼくらのために、ゴレンジャーの絵のついたお茶碗と箸も揃えてくれていた。 思い出した。幼稚園の時、ぼくらは兄弟でばあちゃんの家に泊まりに行ったことがあった。ぼくは前の日あたりから楽しみで楽しみで、当日も嬉しくて嬉しくて、だけど夜になって、家に帰ると言って泣き出してしまったのだ。ばあちゃんが二階の押入れからおっきなゾウのぬいぐるみを出してきてくれても、どんなにあやしてくれても、ぼくは泣き止まなかった。とうとうばあちゃんが家に電話して、父さんと母さんが迎えに来てくれた。敦ちゃんは確か一人で泊まっていったはずだ。ばあちゃんが家に電話している時、父さんと母さんが迎えに来てくれた時、車に乗り込む時、ぼくは心の中でばあちゃんに謝っていた。なんで泣いたんやろ。なんで帰ろうとしてるんやろ。ばあちゃん好きやのに。一緒におりたいのに。なんでこんなことになってしもたんやろ。 * * * ぼくが伊達の姓を継いだことで、ばあちゃんは喜んでくれていると人は言う。でも、小さかった頃のぼくは、ぼくの記憶とは裏腹に、ばあちゃんに意地悪だったそうだ。足の悪いばあちゃんを階段で通せんぼしたり、よく困らせたらしい。ばあちゃんが築地の家の前で撮った白黒の写真は、今もぼくの財布の中にある。時々、その写真を眺めることがある。写真では表札に「伊達」とあるこの家も、今はもう人手に渡った。ばあちゃんへの想いはぼくが大きくなるにつれてますます深くなり、想いが深くなるにつれ記憶が曖昧でしかないことを思い知る。 忙しなく歩く見も知らぬ人の波に、取り戻せない時間の重みと、そんな気持ちを癒してくれるかのように音もなく降り続く雨の優しさを感じていた。全ては、まだ子供だったということで許されることなのかもしれない。だけどどんな理屈でも割り切れず、誰に打ち明けることもできないままに抱えてしまっている心の傷がある。それは感傷に過ぎないのだろうか。ただ、一つ夢が叶うならばあちゃんに会いたい。ぼくも伊達になったんよ、と伝えたい。そして手をつないで、今度は並んで歩きたいと思う。 * * * 「あぁ、ごめんごめん、ばあちゃんのこと考えとったわ」。ぼくらは店を出て、一つ傘の下、寄り添うようにして街を歩いた。 |
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| Every time I think of you My heart is tucked up with some kind of tenderness It's such a nice feeling Kindest as you'd been to me Obsessed am I with your image; Days of my reminiscence All I want now is that Time would let me fly higher Each & every day I'm thinking of you |
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